人気小説「姿三四郎」のモデル

柔道で小柄ながら大きな相手を投げ飛ばす強い柔道家をよく「○○の三四郎」と呼称しますが、その「三四郎」とは人気小説「姿三四郎」の影響。そのモデルになった明治の柔道家、講道館四天王の一人「西郷四郎」。西郷四郎は慶応2年会津若松市で生まれた。

16歳の時、会津藩家老・西郷頼母の養子となり福島県伊達郡霊山町の霊山神社に宮司として奉職する頼母に育てられた。
明治15年上京し陸軍士官学校の予備校であった成城学校に入学。まだ柔道が「柔術」と呼ばれ「合気道」を含む多くの流派あるなか、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んだ。のちに同流出身で、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎に見いだされ、講道館へ移籍します。とにかく技に対する研究熱心なところは人一倍強く、多くの門下生の中でも彼に勝る者はいなかったと言われています。のちに講道館柔道の代表格になります。

日本国内に多数ある柔術諸派の中で最強はどこの流派かという話題が広まり、当時警視庁は正課科目をどの流派にするか検討が始まります。
明治19年、警視庁武術大会で講道館柔道の西郷四郎が、柔術諸派に勝ったことにより、警視庁の正課科目として採用され、現在の柔道の発展の起点となった。つまり現在世界中に広まったオリンピック競技の柔道にとって、西郷四郎は大きな役割を果たしたといえるでしょう。
明治23年、講道館柔道の師範代となっていた西郷四郎は、交流のあった宮崎滔天とともに大陸運動に身を投じるため、講道館を出奔してしまう。
明治35年、長崎で「東洋日の出新聞」の編集長を務めながら、長崎で柔道、弓道を指導し、長崎游泳協会の創設に鈴木天眼とともに関わり、同協会の監督として日本泳法を指導している。
大正11年、広島県尾道にて56歳で病死。没後、柔道発展の功績により、講道館から六段を追贈されました。

※柔術の流派のひとつ会津藩に伝わる「大東流合気柔術」は、会津藩の上級武士にのみ極秘裏に伝授された流派で、現在の合気道の始祖、会津で生まれた武田惣角が学んだ流派と言われています。

【1866年〜1922年】