人道的扱いの捕虜収容所所長

1872年6月に現在の会津若松市で会津藩士、警察官・松江久平の長男として生まれる。日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第9代若松市長。 1914年7月に第一次世界大戦が勃発。青島の戦いで日本軍に降伏したドイツ軍俘虜は、徳島や大阪など全国12ヶ所の収容所へ振り分けられた。それと同時に松江は同年12月徳島俘虜収容所長に任命される。1917年には12ヶ所の収容所が板東など6ヶ所にまとめられ、同年4月に板東俘虜収容所長となる。 ここにおいて松江はドイツ人の捕虜達に人道に基づいた待遇で彼らに接し、可能な限り自由な様々な活動を許した。賊軍としての悲哀を味わった会津藩士の子弟に生まれた体験が、大きく彼の良心的な人格形成に影響したといわれる。 また、付近の人達と捕虜との交流や技術指導も盛んに行われ養鶏・養豚・野菜栽培から建築・設計まで広い分野で交流が行われたと言う。 1920年4月、第一次大戦終了に伴い板東捕虜収容所は閉鎖された。だが、ドイツ人捕虜たちは解放された後もここで受けた温かい扱いを忘れず「世界のどこに松江のような素晴しい捕虜収容所長がいただろうか」と語るほどだったと言う。 ドイツ人捕虜によって日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が演奏された。映画『バルトの楽園』の主人公としても知られる。 1922年2月、少将となり軍を去った松江は、同年12月に第9代若松市長となる。

【1872年〜1956年】