日本のナイチンゲール

悲運の少女時代を経て、後半生を社会運動に捧げ、日本のナイチンゲールとも称讃された慈善事業家。2百余名の孤児の母であり、混乱期の社会福祉運動の先駆けとして、わが国女性初の藍綬褒章を受賞しました。
現在の喜多方市で油商を営む若狭屋に生まれました。17歳で佐瀬茂助を婿養子に迎え、ー男三女にも恵まれたが、その生活も長く続かず33歳の時に夫と死別、続いて母も夫のー周忌の済まぬうち他界。重なる不幸の連続に失意のうちに弟の継いだ熱塩の瓜生家へ出戻る。
1868年、戊辰戦争の戦乱の中傷つく兵士や子供たちを岩子は敵味方の区別なく救助し看護する。
会津藩側からは「敵軍を看護している」、新政府軍側からは「誰の許可を得たのだ」と敵味方から非難を浴びたが・・・

「けがの手当てをするのに誰の許可もいりませぬ」
「けがをした者は皆同じ、国のために戦っているのです」
と話したという。

その献身的な活動は、新政府軍の大将・板垣退助の耳にも伝わり感動させるほどでした。明治天皇の皇后さまにもその行動が伝わり、後に面会することに。
幕末のジャンヌ・ダルク新山八重が晩年、篤志看護婦として日清・日露戦争の救護活動に参加し社会活動に尽くしたのも、同じ会津地方出身の瓜生岩子の影響があったといわれています。

戦乱の後、教育も受けられずにいる会津藩士の子弟たちの為に私費を投じ幼年学校を設立し、習字・珠算などの教育を行い本格的な慈善事業を始めた。
1871に上京し、東京深川の教育養護施設、救養会所で児童保護、貧者救済の実際や経営等を半年ほど学ぶ。帰郷後、貧民孤児の為に手を差し延べていた岩子は1889年に福島救育所を開設。
その後も会津に育児会を設立。瓜生会、風嶋会などを組織し貧者救済に拍車をかけた。
1893年、有力者たちの援助もあり、済生病院を若松に設け、無料で医療を行い、婦女子に教育も施した。野口英世の母も岩子の協力で産婆の資格を取得する。
今日の日本社会福祉の礎を築いたといわれる。

後に岩子はそれまでの業績を讃えられ、女性としては初めての藍綬褒章を受賞する。

【1829年〜1897年】