南部利剛(1826年~1896年)
南部利剛は1826年(文政9年)12月28日、第38代南部家当主南部利済(としただ)、烈子の三男として盛岡に生まれた。
利済(としただ)との不和により1年余で隠退を迫られた兄の利義(としとも)の跡を継ぎ、1849年(嘉永2年)に数え年24歳で第40代南部家当主となる。
藩主となった利剛は混乱する家中にありながら、楢山佐渡や東次郎ら若く才能のある人材を用い、切迫した藩財政の建て直しを図った。まず、利済(としただ)のころに築いた華美な新御殿や津志田の遊郭を廃止するなど奢侈を改めた。さらに、倹約の範を示すために自身の1年間の費用を210両とし、平素は木綿を用い、油を節約するために夜食後は燭台を行灯に換えたと言われている。また北方警備の強化にも努め、守備隊を派遣するなど国事に尽くし、中将に任ぜられた。
利剛は藩の教育振興に力を注いだことでも知られている。1865年(慶応元年)、藩校明義堂を拡張して作人舘と改称、文学・武芸・医学3科の教育体制を整備した。洋学校日新堂を開設する際には、建材を提供し、さらに助成金を交付して援助した。原敬など明治以降に活躍した優秀な人材が、これらの学校から多数輩出されている。
しかし、1868年(慶応4年)に盛岡藩が戊辰戦争に敗れ、利剛は謹慎を命ぜられて東京へ護送される。そして同年12月に藩主の座を退き、嫡子利恭(としゆき)に家督を譲った。時勢に翻弄された利剛は、1896年(明治29年)11月2日、東京にてこの世を去った。
その人となりは温厚で情義に厚く、兄の利義(としとも)に代わって藩主になったことを心痛し、利義(としとも)の子を世子にしようとしたと言われている。また茶道や能楽、和歌などにも精通しており、歌集『桜園集』を残している。
<参考サイト>ー盛岡市公式ホームページー