南部利義(1824年〜1888年)

傳役は安宅中務、花輪栄、戸沢済彰(駿河。三戸式部の兄)、横沢兵庫が担当した。1835年(天保6年)に「四品」(従四位下)に叙任される。

1847年(弘化4年)、三閉伊一揆により父の隠居により第13代藩主に就任したが、世子時代に父の奢りを戒めて以降、仲が悪く、1849年(嘉永2年)6月に父の要求により弟・利剛に家督を譲り、11月に隠居した。この廃立に反対した東堂一堂一派は翌年には処分され、利済の院政がしばらく行われる。利済の重臣で近習頭である田鎖左膳は利義毒殺を画策するが、これは失敗する。

隠居後は麻布の下屋敷に居住していた。第二次三閉伊一揆においては利義の復位及び帰国も要求されたが、さすがに百姓による藩主廃立は認められないため、この要求だけは通らなかった。
また、粗暴な行為が多く、1855年(安政2年)に老中・阿部正弘の命により、下屋敷の一室に押込めになる。その後も明治維新まで盛岡に帰国することはなかったため、幕末の盛岡藩政上は影の薄い存在となっている。

明治維新後に盛岡に戻り、楽堂と号して趣味人として晩年を過ごす。1888年(明治21年)8月21日に死去した。

<参考サイト>ーWikipedia