山口青邨(1892年~1988年)
山口 青邨(やまぐち せいそん、1892年5月10日 - 1988年12月15日)は、岩手県出身の俳人、鉱山学者。高浜虚子に俳句を師事、工学博士として東京大学に勤めながら俳誌「夏草」を主宰した。本名は吉朗(きちろう)。初号は泥邨。
盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)、東京帝国大学工科大学採鉱科(現:東京大学工学部)をへて、1921年(大正10年)に東京帝国大学助教授となる。
この翌年高浜虚子(きょし)に師事し、水原秋桜子(しゅうおうし)らを指導者とした東大俳句会に参加した。このころからいわゆる東京帝大の秋桜子(しゅうおうし)、高野素十(そじゅう)、京都帝大の阿波野青畝(あわのせいほ)、山口誓子(せいし)らを中心とした「四S時代」が始まり、青邨も参加する。1934年(昭和9年)には処女句集『雑草園』を発行、以後『雪国』『露團々』『花宰相』など全部で13の句集を残した。また正岡子規が始め虚子(きょし)が後を継いだ文章会「山会」にも参加、虚子(きょし)の没後は青邨が中心となって活動し、多くの写生文を残している。
青邨の随筆集は『堀之内雑記』『草庵春秋』など8冊に及んでいる。1930年(昭和5年)には宮野小提灯とともに俳誌「夏草」を盛岡で創刊、郷土の俳壇育成にも努めた。
「みちのく」は文字どおり道の奥で、私はこの言葉が好きでよく使うのだが(略)”と青邨は述べており「みちのく」を詠んだ句を多く残した。
みちのくの 山たゝなはる 花林檎
<参考サイト>ー盛岡市公式ホームページー