米内光政(1880年~1948年)

旧盛岡藩士米内受政(よないながまさ) の長男として盛岡に生まれる。

盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなど ヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。

1937(昭和12年)年には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。

また、天皇の信頼も厚く、1940(昭和15年)年には岩手県出身者としては3人目となる内閣総理大臣に就任、しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任した。

太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力し、終戦後も海軍大臣に留任。海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けた。

<参考サイト>ー盛岡先人記念館