高村光太郎(1880年~1948年)

大正昭和期の彫刻家、詩人。

本名は光太郎。東京下谷生まれ。父光雲は木彫家として東京美術学校(東京芸大)教授、帝室技芸員となる。母はわか(通称とよ)。

東京美術学校在学中に与謝野鉄幹の新詩社同人となり『明星』に短歌、詩などを寄稿。1902年(明治35年)彫刻科卒業。研究科に進みロダンに傾倒。1905年(明治38年)研究科修了、洋画科に再入学した。

1906年(明治39年)渡米。翌年ロンドンに移り、荻原守衛、バーナード・リーチらと親交を深める。1908年(明治41年)パリに渡る。このときの体験はのちに「私はパリで大人になった」(「パリ」1950年刊『典型』所収)と歌われるほど全人格的な影響を与えた。

1908年(明治42年)帰国。「緑色の太陽」などの芸術評論を発表する一方、北原白秋らのパンの会に参加し詩作を開始。1912年(大正元年)年岸田劉生らとフュウザン会を結成。1914年(大正3年)には詩集『道程』を刊行。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」ではじまる「道程」や「根付の国」などを収める。

同年、画家長沼智恵子と結婚。彫刻、詩、批評、翻訳などの分野に旺盛な活動を続ける。このころの彫刻作品に「裸婦座像」「手」「老人の首」「鯰」などがある。1938年(昭和13年)年発狂し入院していた智恵子が死亡。1941年(昭和16年)彼女への愛情をテーマとした『智恵子抄』を刊行した。

1942年(昭和17年)文学報国会詩部会会長に就任。1945年(昭和20年)戦災により岩手県に疎開。1952年(昭和27年)帰京したが、1956年(昭和31年)結核により死去。西欧の文化、芸術への憧憬に根ざした大正期の活動から、戦時中の戦争協力的態度、戦後の戦争責任をめぐる自己反省へと振幅の大きい一生だった。

<参考サイト>ーコトバンク:朝日日本歴史人物事典